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    「ねえ、御苦労なこつた」

    「さうか、――そんなに何もかも、こつちでして貰つてもえゝか」

    「三人どころぢやない、五人も十人もある」

    「どうしたい、君はその恰好をまだ見せたい気かい」

    「ふうん、それもよからう」

    「さうですね。さつきからどうもさうらしいと思つていたんですが、失礼しました」

    と、房一はほつとした面持になつて云つた。

    「さうですか」

    「あゝ、高間さんの奥さん。――さうですね」

    と、新聞紙から眼をはなした練吉は、一寸正文の邪魔になりさうな足をひつこめただけで、別に行儀のわるい姿をなほさうともせずに、又新聞を持ち上げながら、

    「笹井?――御隠居さんが云つたのかい」

    他に通る人とてはない、この広濶な坂の一本路で、二人はいやでも顔を見合はさずにはいられなかつた。近づいて来る自転車の車体には房一の往診用の黒革の鞄と同じ格好のものがとりつけられていた。房一には相手が誰かといふ見当が今は疑ひなくついていた。恐らく、先方にも房一が判つたにちがひない。

    そんな具合だから空室になつた分家の方も閉めて置くより他はなかつた。鍵屋の方はまだしも湿めつぽい匂ひがあるが、この分家は人気ひとけが去るのといつしよに家そのものの気さへ抜けてしまつて、乾いて、たゞ昔の恰好のまゝで立つているだけであつた。まさか、よそから流れこんで来た八百屋や指物師などに貸すわけにはいかない。ところが、全く打つてつけの借り手ができた。それは「医師高間房一」だつた。医者に貸すのだつたら、別に家の品を落すことはないわけだ。

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